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2011年5月24日火曜日

被災地調査と思ったこと

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あの日、帰宅してベッドに横たわり、目を閉じてもあの景色が戻ってきて、あまり寝付くことができなかった…

5月半ば、やっと被災地に行ってきました。今までなかなか行くことができなかったのですが、研究室の調査の一環で仙台や石巻へ足を運びました。

テレビで見たままの惨状。画面を通して受けた印象と、直接見て受けた印象は、視覚的意味ではほぼ同じでした。しかし、そこに加わる他の感覚。触覚、嗅覚…。それが合わさったとき、なんとも言えない気持ちになったのを覚えています。
帰りの新幹線で、当時の気持ちを書き出しておいたものを参考に、少しだけ思ったことを残しておこうと思います。また、あくまで調査で訪問したため、ボランティアではありません。ゆえに、工学的意見も交えながら、書いていこうと思います。



【新北上大橋】

(新北上大橋の左岸側3分の1が流出。川が蛇行しているため、蛇行の内側は水深が浅く、津波の波高が高くなっており、エネルギーが違ったことにより、こちらだけ流出したのではないだろうか。落橋防止のケーブルも破断。通常遊歩道があるようだが、地盤沈下あるいは流出により確認できず。)
付近には、生徒74名中56名が亡くなった、大川小学校があります。生徒たちは、海抜8mあるこの橋の上に逃げようとしたようでしたが、その8mすら無意味なほどの津波が来てしまい、多くの生徒が逃げ遅れてしまったようです。ここは、河口から約4kmもあるのに、そんな津波が来ることは誰が予想できるでしょうか。写真では橋しかありませんが、もともと田園地帯であったため、この周りには本当に何もなかった。家も骨組みだけ残っているものもありました。田畑は津波のヘドロや塩分にやられ、しばらく作付けは難しいのではないでしょうか。復興をするにあたって、どれだけのことを考えなくてはならないのか…。

【女川町】

来襲した津波が、20mもあったと言われるだけあってかなりの被害でした。写真は、JR女川駅です。右の四角い残骸はエレベーターだそうです。ここは、レールが一部残っているものの、ホームもコンクリートにも拘らず大きく破壊されていました。女川はかなり被害が大きく、見るに耐えなかったです。また、終始マスクをしていましたが、ヘドロや魚のにおいでしょうか、かなりの悪臭がしていました。
南三陸町や陸前高田もテレビを見るかぎりものすごい被害ではありますが、女川も相当なものでした。女川町は「自分たちに何ができるか?」と考えることすらおこがましく思えるような被害。とにかく、鉄筋コンクリート構造物が基礎から根こそぎ、なぎ倒されており、あらゆるものが海の藻くずと化している女川を目の当たりにすると、当時被害にあった方々や逃げ延びた方の恐怖がどれほどのものであったかと思われます。むしろ、自分が今思っている以上でしょう。
移動中、ところどころガレキ収集所がありました。しかし、明らかに場所が足りない印象を受けました。このガレキをどうするのか、それが問題となってくるでしょう。岩沼市の復興計画で、がれきを堤防に使用することになってはいますが、実現性はどれほどのものなのでしょうか。純粋に気になります。

復興に際して、何から手をつけるべきか、それすらわからないほど被災地には今、何もないい…。女川にいたっては区画もわからないほど。かろうじて道路は残っていますが、基礎ごと流されている建造物も多く、個人個人の土地区分がもはや判断不可能なレベルでした。2ヶ月経って訪問してもまだこんなにがれきがあるということは、いったいどれほどのスパンで復興が可能なのでしょうか。

この津波を起こさないことはできません。では、その津波への対策をどこまでやるべきなのでしょうか。津波に耐えうるインフラや建物を作るべきなのでしょうか。それとももうそこには住まないべきなのでしょうか?答は、「そこに人が住む限り、対策をしなくてはならない」のだと思います。どこまで技術的に、現実的に可能なのか、自分にはまだ浅い知識しかないのでわかりません。ですが災害大国日本に住みながら、社会基盤整備に少しでも関わっている一学生として、そんなことを考えてしまいました。

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